いつもげんき
by norico-rinicof
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go近所
6月1日から、認知症専門フロアで働くことになりました。
静寂を際立たせるような降り方をする雨でした。それは窓の外の風景で、今日もデイルームは賑わっていました。Mさんはその賑わいの扇動者で、例に漏れず重度の認知症の症状がある。傍に座っていた私にMさんが言いました。(いつものでっかいダミ声で)
「ねぇさん、死んだらワシどこへいくんやぁ?」
...サーッと空気をなでるようになめらかな雨の中、静寂を無視して予期せぬイナズマ!といった感じに、Mさんの質問は私を砕きました。
「そりゃ死んでみなわからんわぁ」という考えが私の頭ん中に浮上しました。が、すぐ消えた、否、消しました。そんなこと90歳を超えるMさんに口が裂けても言えなかったので。自分は若い、23歳だとおもって調子に乗っている、無責任にもほどがある答え方ってもんや、それは。そこで、とっさに私は
「極楽にきまっとるやんかぁ」
と答えていました。とにかく根拠とか正当性とかどうでもよかったわけで。とにかく、なんでもない雨の日の昼下がりに「死」を想うMさんに、安心を、安らぎを、と思ったわけで。。。祈るような気持で答えていました。
Mさんと同じ疑問について、人間は二度苦悩する。一度目は、こどもの頃。二度目は年老いてから。人生の大半はその二度の苦悩に挟まれた時期、いわゆる盛りの時期。しかしリアルなのは、その時期ではない。二度の切実な苦悩の中にこそリアルがある。。私の目の前の老人たちは、日々リアルの真っ只中
本日の味:鞍馬サンド
本日の音:ザ・ビートルズ「A Hard Day's Night」より #アンド アイ ラブ ハー
これは、ルソーが『告白』以後始めた自己探求本のタイトルです。
2005年日本社会でよく目にする風景にの一つ→人が歩くことを目的に歩いている。
参勤交代だってなんだって歴史上、歩く=移動だっとように思います。
しかし、今は?
雑誌もテレビも歩き方から教えてくれる時代になったんです。そりゃ、デューク更家がモナコと六本木ヒルズに住居を構えるわけですわ。
が、しかし昔から、単なる移動ではなく、歩く事を目的に歩いてきた人種があった。哲学者です。考える、思考する、哲学する、、、のに散歩っていうのはモッテコイらしい。京都にも「哲学の道」てのがあるし、かのカントも散歩が日課だったらしい。
自らを孤独な散歩者として、日々の散歩の道すがら浮かんできた想念をそのままに書き留めたような、ルソーのこの著作には、時にいかなるロジックの説得力にも勝る、悲しみや喜びの響きがある。そしてそこからは、老いて悟る人間の矛盾した感情がにじみでている。ここでゆう矛盾とは、人間への止みがたい愛着と、孤高であらんが為の人間からの孤立。。。
。。。「人生は孤独な散歩」みたいに捉えられるなら、「人間への愛着」、殊に老いたる人への愛着は止まないとゆうことかぁな。。。
最近の味:ビスコ
最近の音:小沢健二「犬は吼えるがキャラバンは進む」 #天使たちのシーン
「目が見えんようになってく。真っ暗になってく。」と、たびたび訴えるおばあちゃんがいる。日に日に視力が落ちていくおばあちゃんの喪失感、恐怖感…私は想像しただけで砕けそうになる。そして言葉を失う。
そんな私に、プラトンが『国家』のなかで、こう言った。「心の目は、肉体的視力の衰えにともなって、磨かれていく」
ありがとう!!プラトン!。。。でもこれでおばあちゃんの恐怖が消えるわけではない↓↓
で、おもしろいのは、プラトンの弟子アリストテレスは、『弁術論』でこう言ってしまう。「精神は49歳頃に最高である」
49歳て「ちゅぅ~とはんぱやなぁ」(漫才師ちゃらんぽらん風に)。
この巷でよく聞く、プラトンの「ポジティブな老い」、アリストテレスの「ネガティブな老い」という両極的な捉え方。
けれど、アリストテレスは62歳で亡くなるまで、講義や著作活動に励んでいたということだから、結果的にアリストテレス自身、49歳頃にその精神が最高だったとは言い切れなかったということになる。
すなわちプラトンの弟子であるアリストテレス自身、精神が加齢に伴って研ぎ澄まされていくことは、よくわかっていたに違いない。
だからこそ、それを言うために、アリストテレスは、古代ギリシアから2000年以上もの月日を経てなお現代にも蔓延る、「ネガティブな老い」を代弁したに過ぎないんじゃないやろか。「ネガティブな老い」に対して、「これでええの!?」「ほんとうにそうなん!?」ってな感じに。
そして私は、アリストテレスの記述した「ネガティブな老い」を超えて、アリストテレス自身が残した彼の生き方(老い方)に、彼自身の真の主張を感じてしまうのでした。
本日の音:RCサクセッション「COVERS」より #サマータイムブルース
呆けた老人に、「ただ生きてください」とエールを送り続ける毎日。そして「私の横にいてください」とお願いし続ける毎日。そんな風にして、慌しい職場で時を過ごす。
一体なんで?若干23歳の私、今現在を憂う暇なんてないくらいに、ただ突っ走ればいいだけの23歳の私。そんな私に、「突っ走る」とは一見無縁の、この呆けた老人たちの存在が、なんで必要なんやろか。。。わからん、やっぱり理由とかないのかな。いや、あるはず。
理由があるとすれば、その一つは「呆け老人」てこうゆう人やからかもって思った今日。
普通の人、健康な人にはむずかしいけれど、金や権力や見栄を超えた世界に生きているあなた(呆け老人と呼ばれる人)であるがゆえに、あなたの存在自体が豊かさに浮かれているこの国の「救い主」かもしれないと。 ~サンガインタビュー浜田晋氏に聞く より~
呆けた老人は、私の裸の状態を知りつつ、私が幾重にもまとう衣の分厚さと、汚らしさもしっかり認知してくれている。どこの役人が、呆けた人を「認知症」なんて呼べと言ったのか。私をこれほど敏感に認知してくれる人を、私は知らない。その役人や学者は、おそらく呆けた老人に傍にいてもらったことのない人やろうなぁ。。。呆けた老人に私は引き続き、「救い」を請いたいと思います。
本日の音: クレイジーケンバンド「肉体関係」より #ベレット1600GTヨコスカ仕様
老人が「ありがたい」とつぶやきながら、今日jも両手をあわせました。
合掌というこの動作が私を感動させます。
ぴったり合わないその両手。
でこぼこの関節と、深く刻まれたシワと、ひび割れた爪で、ぴったりとはいかないその両手。
ちょうど、のど仏の前辺りにある空気を、大きく古いその両手で、卵でも包み込むように、そっととじこめる動作。合掌。
その動作に魅せられて、「ありがたい」ってなんやろうと考えていました。
感謝する?有難い?それだけじゃない気がします。たとえば英語圏の人に、この感覚はどう伝えるのか。。。thank? mysterious? appreciate? む~どれもしっくりきもせん。もの足りません。
今日、これやって英語をみつけました。
“O, wonderful, wonderful, and most wonderful, wonderful !
and yet again wonderful...” シェイクスピア『お気に召すまま』より
合掌する老人は、すべてが「不可思議」であることを知っていて、説明のつかないそれを、「合掌」という動作と「ありがたい」という呟きで、表現しきっています。
それの感覚は何ともスピィチュアルで、wonderfulを何度繰り返しても言い尽くしがたいという、このシェークスピアの一節が伝える感覚にとても近いものを感じました。
本日の音:「OZ」 100s
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